旧東海道、畑宿から湖畔まで続く石敷きの古道。江戸幕府が足場の悪い土地を歩きやすくするために整備しました。往時の石畳が保存され、当時の面影を偲ばせています。石畳の両側には、松や杉の木が植えられています。
小田原箱根口から芦ノ湖畔までの上り四里、三島までの下り四里をあわせ「箱根八里」といい、この坂道は“箱根の山は天下の険”と歌にも歌われたように、東海道の中でも箱根越は最大の難所でした。
標高800メートルを越える山中であることに加え、ひとたび雨や雪などが降ると、旅人はすねまで泥につかるありさまで、歩くのがたいへん困難だったからです。そこで旅人の便宜を図るためにつくられたのが石畳の道です。
しかしはじめから石畳が敷かれていたわけではありません。寛永元年(1624年)に来朝した第3次朝鮮通信使の記録によると、竹が敷きつめられていてまるで乾いた道を行くようであった、と記録されています。これは箱根山に群生している通称「箱根竹」と呼ばれる細竹のことです。
ところが道に敷かれた竹は腐ってしまうため毎年敷き替えなければなりません。そのために多くの竹と人手、お金を必要としました。そこで幕府は、延宝8年(1680年)公金1400両あまりをかけて、箱根峠から三島宿に至る西坂のうち、約10kmを石畳の道としたのです。
箱根峠から小田原宿へと下る東坂には、現在7地点、3.3kmにわたって石畳が残っていますが、それについては史料がないため詳しいことはわかっていません。