富士山の噴火でできた溶岩洞穴。主洞は高さ1.5m、幅3m、奥行き約90m。最奥からさらに細い穴が伸びており、神奈川県の江ノ島に通じるとの伝説もあります。
江戸時代には富士信仰の修行の場ともなっていた聖地で、富士講の開祖である角行は、永禄元年(1558年)に人穴にやってきて修行をしました。
また富士講信者は、富士参詣(登山)をすませると聖地人穴に参詣にやって来て、宿泊したとされます。現在も洞内にはその時代に作られたとされる石仏が安置されています。
「人穴」という名前の由来は、仁3(1203)年、源頼朝が家臣の仁田四郎に人穴探検を命じたということから、人穴と呼ばれるようになったといわれています。『吾妻鏡』の記述では、仁田四郎は探索を行うが、人穴においてその従者4人が突然死し、やっとの思いででてきたという記述があります。
御伽草子『富士人穴草子』では「人穴は地獄である」という表現で綴られた記述が続き、人穴が恐怖の対象として見られていたことが分かります。
人穴浅間神社の社殿が洞穴入口にあり、その周辺には富士講関係者の記念碑・供養碑などの碑塔が約230基、当時の面影を見せながら残されています。